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2026.09.25

THESPA TIMES Vol.14 神垣 陸インタビュー「小さい頃から見てきた“J2”のザスパ。このクラブをJ2に戻し、その先へ」

群馬県前橋市出身で、プロ6年目を迎えた2026年に奈良クラブから完全移籍でザスパ群馬に加わった。幼少期、最も身近にあったクラブを当時戦っていたJ2に戻し、さらにその先へ――。脂の乗った28歳、リーダーとしての役割も求められる神垣陸は熱く決意する。新シーズン、チームは監督交代に揺れたが、それでも目指すべき場所にブレはない。紆余曲折、彼が歩んできた道とともに、その想いに迫る。


懐かしい思い出がある。

まだ中学生だった頃、眩い芝生の上でザスパの選手たちが戦っていた。その光景をピッチ脇でボールボーイとして見つめていた。

「当時、中学校のサッカー部にも籍を置いていて、ボールボーイをやらせてもらったんです。スタジアムには何回も応援に行っていましたし、プロと言えばやっぱりザスパ。身近な存在でしたね」

2026年、そんな地元のクラブに戻って来られたのも何かの運命か。

「中学卒業後に群馬を離れて、13年くらいですかね。帰ってくるまで長かったので、懐かしさを感じています。地元の友だちも今まで簡単に会える距離ではなかったので、僕自身も嬉しいですし、ご飯に行ったりしています。何より両親を含め家族が喜んでくれているのが、僕的には一番良かったです。中学を卒業して、プレーを直接見せられる機会はなかなかなかった。でも、今はホームだったらすぐに来てもらえますし、それが『頑張らなくちゃいけない』という原動力になっています」

そして固く決意する。

「やっぱり自分が小さい頃から見てきたのは“J2”のザスパ。幼い頃はその姿をずっと目にしてきたからこそ、このクラブをまずはJ2に戻したい。そしてその先へ。その想いが一番強くあります」

28歳、ゲームキャプテンとして腕章を巻くことの多いボランチは、冷静に、それでも熱くザスパのために戦い続けているのだ。

自分の“感覚”を大切に進んできた道。10数年ぶりに地元に戻ってくるまでには紆余曲折な歩みがあった。

「自分は全く覚えていませんが、父親がサッカーをやっていたっぽいんですよ」

本格的にボールを蹴り始めたのは、うろ覚えながら小学2年生の頃だったという。

「と言っても、父親は趣味程度の感じ。学生時代、部活に入って、大人になってもちょっとやっていたという感じだと思うんです。それに『サッカーをやりなさい』とかそういうことを言われたわけではありませんでした。それで最初は野球を始めたんです。小学校のクラスメイトがみんな野球をやっていてその流れで。でも1週間くらいで、『なんか違うな』と。直感的にそう思ったんです。

サッカーは保育園の時にスクールみたいなところに少しだけ行っていて、楽しかった。で、小学校に入って、みんなと一緒に野球をやったけど『なんか違うな』って、そこから本格的にサッカーを始めました。ちなみにお兄ちゃんと僕は正反対。お兄ちゃんはスポーツに興味を持っていなかったですし、親が見れば似ている部分はあったみたいですが、どっちかが拾われてきたんじゃないかと冗談を言ったりしていますから(笑)。

でも家族には本当に支えてもらいました。保育園の時も、小学校の時も毎週送ってくれたのはお父さんでしたし、毎試合のように家族は見に来てくれましたね」

小学生の時も最初に入ったチームから「直感的に」tonan前橋に移り、サッカーの虜となった。

「母親曰く、小学生の時は雨が降ると練習が休みになるんですが、そういう時は、『サッカーに行きたい』と結構ぐずっていたらしいんです(笑)。それくらい友だちと一緒にボールを蹴るのが好きだった。それが原点ですね」

サッカーにのめり込んだ日々、中学ではtonan前橋のジュニアユースにエスカレーター式に上がることも可能だった。それでも神垣は自分の心に正直に、常に成長できる場所を求め続けてきた。

「小学校の時にありがたいことに県のトレセンにも選んでもらえて、その時のコーチが、前橋FCの監督(湯浅英明)だったんです。その出会いをきっかけに、前橋FCには県トレで一緒だった選手も多く、ここでプレーすればより成長できると感じました」

実はこの時、大きな声では言えないが、ザスパアカデミーのセレクションも受けていた。ただ、前述の通り両者の縁が結ばれるのはもっと後のこと。神垣は前橋FCに進み、ボランチとともにサイドバックを経験するなどプレーの幅を広げてみせた。すると、高校進学の際に思いもよらないオファーが舞い込んだ。

「前橋FCではより勝敗にこだわるなどビシバシ指導していただきました。それに僕は小学生時代はずっと前目のポジションで、それこそ“自分が王様だ”みたいな感じでやってきましたが、中学Ⅰ年の時に急にサイドバックになり、最初は『守備なんてできないよ……』と思っていました。でもちょっとずつサイドバックの面白さにも気付き始め、3年生の時にボランチもやり始めました。そうしたら、たまたま3年生の時に、遠征先でボランチとして出場した試合を、尚志高校の監督(仲村浩二)が見てくれていて、『ボランチとして欲しい』と熱心に声をかけてくれたんです」

心の中ではザスパとも縁が深い、地元の名門、前橋育英高校に進学したいとの想いがあった。だが、ここでも“自分が成長できる場所”として、福島県への越境入学を選ぶのが彼らしい。

「中学進学時に前橋FCに入るきっかけはもうひとつあって、高校では“育英”に行きたいという目標があったんです。当時、傾向として、tonan(前橋)からは前商(前橋商業)、前橋FCからは育英、前橋ジュニアからは桐一(桐生第一)みたいな流れがあったんです。前橋FCは育英のグラウンドでも練習をやらせてもらっていましたし、自分のなかにも漠然と、『群馬で高校サッカーをやるんだったらやっぱり育英』という憧れがありました。

だからその希望は伝えていたんですが、中学時代の自分は特徴があまりなく、何かに秀でた選手でもなかったので、僕のことを思って前橋FCの監督は『育英に行ってもボランチとしては厳しいかもしれない』とハッキリと伝えてくれました。そのアドバイスもあって、自分が一番楽しいと感じられるボランチで自分のことを認めてくれた尚志へ、親元を離れての挑戦も成長できるチャンスだと考えました」

初めての寮生活はやはり苦労した。

「もちろん両親も県外に出るなんて思っていなかったようで、反対じゃないですけど、群馬の高校で良いんじゃないのか、という話はしていました。でも、最終的には背中を押してくれた。実際に福島では最初は何も分からない、知り合いもいない環境で大変でしたが、生半端な気持ちで行ったわけではないので、家族に頑張っている姿を見せたいっていう想いが原動力、頑張れる源になりました。3年生の時には、選手権(全国高等学校サッカー選手権大会)に出場し、全国でプレーしている姿を伝えることもできて良かったです」

それでも高卒でのプロ入りは叶えられず、桐蔭横浜大学へ。同期は橘田健人(現・川崎F)、遠藤凌(現・いわき)、鳥海芳樹(現・水戸)、松本幹太(現・エリース豊島FC)、岩下航(現・いわき)、加々美登生(現・Young Lions FC/シンガポール)ら、後に神垣を含め7人がプロの世界へ羽ばたく黄金世代だった。

「大学のレベルの高さには驚きましたし、同級生たちのプレーを見て『こいつらうますぎる』『4年間、俺、試合に出られないかも』と思ったのが正直なところでした。それこそボランチには先輩の山下優人さん(現・水戸)や、橘田という本当にうまい選手がいましたから。だから3年の途中まではずっとBチーム。苦しかったですね」

ただ、“根拠はないけど、自分はできる”と常に言い聞かせられるのが神垣の真骨頂だ。

「レノファのスカウトがひとつ上の眞鍋旭輝さん(現・宮崎)を見に来た時に僕のことも目に入ったようで、3年生のインカレ準優勝後に『練習に来てほしい』と言ってもらえたんです。でもそこからちょうどコロナ禍で……、練習参加ができない環境になっちゃった。だから4年生の10月ぐらいまでは、どのクラブも練習参加を控えていたはずで、内心めちゃくちゃ焦っていました。

それで10月にレノファの練習に行かせてもらいましたが、その時のパフォーマンスが良くなくて……。それで『ラストチャンスの想いでもう一回来てくれ』と言ってもらい、もうやるしかない、とにかく走って、意思だけは示そうと、これでダメだったらしょうがない、後悔がないように挑みました。そして、3回目の参加で、練習試合を経て内定をいただくことができました。それが4年生の11月。本当にギリギリでした」

ようやくこじ開けたプロの扉。気を揉んでいた群馬の家族が喜んでくれたのは言うまでもないが、山口ではプロ1年目からしっかりと出場数を重ね、自信も手にしていた。しかし、山あり谷ありなのが神垣のサッカー人生なのかもしれない。プロ3年目の2023年の年末、契約満了を言い渡される。

「悔しかったし、ショックな部分はあった」と振り返るが、それでもトライアウトに参加。「もちろん不安はありましたが、これまでのことがつながってくれる、自分は大丈夫と言い聞かせていました」という彼の下には、奈良からのオファーが届いた。

「崖っぷちでしたが、プロの舞台に残れた。感謝しかなかったです」

奈良では、恩返しの想いで全身全霊でプレーし続けた。そして2025年の年末、届いたのが地元・ザスパからの誘いだった。

「地元でプレーできる喜びが一番強かった」

熟慮の末、群馬への帰還を決め、気持ちを新たにした。

「僕や(大畑)隆也くんら地元出身の選手がやっぱり試合に出て盛り上げなくてはいけない。ゲームキャプテンを任せてもらうことも増えているなか、先頭に立たなくちゃいけないとの覚悟も芽生えています。だからもっともっとやらなくちゃいけない。そして一番の想いとしては、やはりまずはザスパをJ2に戻したい。そこですね」

生まれ故郷での挑戦はまだ序章。ここから彼のサッカー人生のようにドラマチックな展開が待っているに違いない。それを本人も楽しみにしているはずだ。

文:本田健介

 

カテゴリ:INTERVIEW