【Player’s Story Vol.09】瀬畠義成インタビュー「重ねた後悔は強い。でもやったことは繋がる」

狭き門をくぐり抜け、中学、高校は親元を離れてJFAアカデミー福島に入学。U-16日本代表としてU-17ワールドカップの出場権獲得にも貢献した。当時の代表の同期は久保建英、菅原由勢、中村敬斗、瀬古歩夢ら錚々たるメンバーだ。しかし、エリート街道を進んでいるかに見えたキャリアは後悔の連続でもあった。ボランチとしてザスパの中軸を担うべき存在、瀬畠義成の歩みを振り返る。
後悔先に立たず。
人間、どんな生き方をしていても後悔は必ず生まれるものだ。それは今の自分に納得がいっていない部分があるのなら尚更だろう。
それこそエリートが集うJFAアカデミー福島出身の瀬畠義成は、U-16日本代表で久保建英、菅原由勢、中村敬斗、瀬古歩夢らと同じ“00世代”の一員として戦い、U-17ワールドカップ(2017年開催)の出場権も獲得。まさに将来を嘱望されたタレントのひとりであったが、“あの時こうしけおけば”という経験も重ねてきた。
サッカーを始めたのは小学1年生の春だった。
「6つ離れた兄が少年団に入っていて、平塚に住んでいましたが、練習場所は車で行く距離だったので、親も小さかった自分を家に残すわけにはいかず、連れていってもらっていました。そこで兄の友達たちに混ざってボールを蹴らせてもらいました。それがサッカーとの出会いで、親御さんたちにも可愛がってもらいましたね。実際に相当可愛かったんです(笑)。それは冗談として、自分も小学校入学と同時に少年団に入ることにしました。候補がふたつあったんです。ただ、行こうと思っていたひとつのチームに入る直前に、誘ってもらって一緒に通う予定だった友達と些細なことで喧嘩してしまって(笑)。それで『そこにはもう行かない!!』と、もうひとつの候補であった“松が丘フレンドキッカーズ”を選びました。そこでは王様みたいな感じでしたね。もうわがままで(笑)。好きなように振る舞って、うまくいかないと不貞腐れて、よく怒られていました(苦笑)。周りのうまい子たちがけがをしたり、違うクラブに移った背景もあったり、自分で言うのもあれですが、やはり断トツでうまく『俺がエースだ』みたいに格好つけていました(笑)」
いたずらっぽく笑みを浮かべるが、その後、狭き門であるJFAアカデミー福島のセレクションをパスし、中学1年生から親元を離れ、“プロ予備軍”として研鑽を積んだのだから能力の高さが窺える。

「平塚市のトレセン、そしてその上の神奈川県トレセンにも選んでもらっていました。神奈川は西、中央、東のブロックに分かれていて、自分が入っていたのは西。その練習会で、当時のJFA福島のアカデミー長、正しくはスクールマスターっていう肩書なんですが、いわゆる校長先生みたいな存在だった布啓一郎さんが、選考会案内みたいなものを配ってくれたんです。それで親とも相談して『力試しに受けてみるか』という流れになりました。
1次試験は、県のトレセンに入っていた選手は免除で、2~4次の選考会が全国各地域であり、自分は横浜で行なわれた2次選考に参加しましたが、能力の高い選手たちばかりでした。だから落選を予想して父親からは『これで自分の実力が分かっただろう。全国には化け物みたいな選手がいるんだ』と言われていたんです。でも、うちは共働きで、ポストに入っていた合否の通知書を自分が最初に見たんですが、受かっていた。ただ、3次試験は受かるとほぼ合格できるけど、大方の選手は3次で落とされるとも聞いていて、父親からは改めて『ダメだったら部活で頑張れば良いじゃないか』みたいな話もされていたんです。だから3次も通ることができた時は『受かっちゃった』みたいな感覚で。中にはJクラブのアカデミーに受かっていた子もいたはずで、一方で自分は湘南(ベルマーレ)のジュニアユースに落ちていて、そういった進路が被らないような配分もあったかもしれませんが、その後の面談も通過して、無事に正式合格できた時はめちゃくちゃうれしかったです。
中学生での寮生活は、そりゃあ最初は大変でした。でもうちは厳しい家庭だったので、その分、寮生活がめちゃくちゃキツイってことはなかったですね。それこそ同期は16人ぐらいいて、14人ぐらいがホームシックになって、なかには辞めちゃった子もいたんですが、僕はまったく(笑)。当時は東日本大震災の影響で福島ではなく御殿場の施設を使用していて、電車に乗れば実家の平塚まで2時間くらいで帰れるという思いもありました」
当時、厳格な父からかけられた言葉もあった。
「同期が16人いるなら、お前はもう16番目のスタートだからな」
発破を胸に駆け上がっていった。
「当時、平塚って神奈川県の地域のなかでサッカーでいうとそこまで強くなくて、川崎、横浜、横須賀らに行けば化け物みたいな選手たちがいました。それが全国となれば、なおさらですよね。だから僕は底辺からのスタートで這い上がるしかなかった。少年団では足は速いし、うまいから王様のようでしたが、トレセンの練習やJFAアカデミー福島の選考会などでは全国レベルを痛感していました。だから頑張るしかなかったんです。それで中学3年の高円宮杯が終わったぐらいに日の丸を背負う経験をさせてもらい、高校1年生になったら、(U-17ワールドカップへの)アジア最終予選まで出させてもらった」
努力が花開き、サクセスストーリーを描いていく。だが、急速な環境の変化が起こった時こそ心の持ちようは難しい。瀬畠自身も多くの後悔を重ねてきた。

「U-17ワールドカップのメンバーには入れなくて。その時はめちゃくちゃ悔しかったです。ちょっと舐めていたと言いますか、初心を忘れていた部分もあったのかもしれません。高校2年生の時は少し天狗になっていたというか、勘違いがあったのかなとは感じますね。だからめちゃくちゃ後悔していますよ。あの時、もっとやれたんじゃないかって。あの世代ってそれこそ菅原由勢、中村敬斗、1つ学年が下の久保くんら、タレントが揃っていて、監督は今、ベガルタ仙台を率いている森山(佳郎)さんですごいメンバーが集まっていた。そこに自分も選んでもらっていたのに……、この間の(北中米)ワールドカップで日の丸を背負っている彼らの姿を見たら、どうしても自分と比べてしまって、『俺、今何しているんだろう』みたいな想いは正直生まれましたね。どうやったらあそこまでいけたのか。めちゃくちゃ考えちゃいます。
さっき、天狗みたいになってしまったと話しましたが、代表活動の時は、謙虚って言いますか、もっと我を出せば良かったとも思っているんです。当時はミスを恐れ、怒られないように縮こまって安パイなプレーを選んでしまっていた。怖じ気づき、ビビったのはもったいなかった。それこそ周りは我の強いやつらばっかりだったので。今、横浜F・マリノスにいる鈴木冬一、京都サンガで長く10番を背負っている福岡慎平らも当時のメンバーで、みんな自分を持っていましたから。一方で自分は影から支えると言いますか、2番手、3番手で頑張りますみたいな気持ちがあった。周りを食ってやろうみたいな感覚が足りなかった。そしてチーム(JFAアカデミー福島)に帰った時は、ちょっと調子に乗っているみたいな部分があった。それはもったいないことをしたと思っています。
今となれば当時のことを覚えている人っていないかもしれませんし、何年か経ってそんなこともあったねという思い出のひとつでしょうが、自分にとっては、なんで一歩を踏み出せなかったのかと、後悔が強烈なんです。ザスパでプレーできているのは幸せなことですが、今の自分の結果を考えるとなおさら後悔は強いです」
JFAアカデミー福島を卒業する際にかけられた言葉も印象深い。
「僕らの世代の担当だった廣山(望)さんに『代表に入るってことは能力を認められているんだ』って背中を押してもらいましたが、その言葉が一番刺さったんです。それって逆に言えば、能力はあるのに、シンプルに努力が足りなかったってこと。もちろん、代表選考のテーブルに乗れずに悔しがっている選手も多くいます。だけど『一度は認められたけど、その後の代表に入れてないってことは、答えはひとつだよね』っていう廣山さんの言葉は芯を食っているなと。頑張っていたつもりでしたが、振り返るとやっぱり後悔が残るんです。
だから、日本代表に関しても2016年のリオ・オリンピックまでは純粋に応援していたんですが、4年後の東京オリンピックからは、同世代が中心になっていることがあり直視できなかったですね……でも、その時にこのままじゃいけない、悔しいという感情が生まれたのは良かったです。それがなかったら多分この先、頑張れないでしょうし、その感情がなくなったらサッカーを辞める時なのかなと」
その後、瀬畠が選んだのは東洋大学への進学だった。
「森山さんにはヨーロッパの選手を例に、高卒でJデビューしなきゃもう遅いみたいな話はしてもらっていたんです。自分たちの世代のU-17ワールドカップで日本はイングランドにPK戦で負けましたが、相手には(フィル・)フォーデンらがいた。彼はすでにマンチェスターシティのトップチームでプレーしており、そういう選手と仲間たちが戦っている姿に鳥肌が立ちましたし、レベルの差も感じていました。ただ大学進学はそこまでネガティブではなく、とある記事を見た時にA代表の平均年齢が上がり、大卒選手も増えていることを知り、少し安心したんです。まだチャンスはあると。それこそ三笘(薫)選手が良い例ですよね」
その言葉通り、東洋大で研鑽を続け、瀬畠は2023年に当時J2のV・ファーレン長崎への加入を勝ち取った。ただ、ここでも後悔を残してしまう。

「1年目のキャンプ、チームのファーストゴールを決めるなど、手応えがあったんです。ただキャンプが終わり、次の週ぐらいに開幕っていうタイミングで2か月ほどのけがをしてしまった。その時は復帰すれば、すぐに試合のメンバー入れると勘違いしていたんです。
でもプロって怖いと思いましたが、キャンプで身体が出来上がっていたのは若い選手ばかりで、中堅やベテランの選手は開幕までに調子を合わせるうまさがあった。それでいざ復帰した時に、みんなの動きが全然違うわけですよ。もちろん成績を受けてのチーム状況も異なっていましたが、通せていたパスが通せなくなっていたり。でも、キャンプの時に自分はやれるとの手応えがあったから、いつかはリーグ戦のメンバーに入れるという変な自信があり、プロデビュー戦が天皇杯のヴァンフォーレ甲府戦でしたが、今だったらあり得ないことですが、『天皇杯かよ』とモチベーションが下がってしまったんです。
もう本当にバカな話ですよ。めちゃめちゃ大事な公式戦のひとつですよ。しかも自分にとっては大チャンス。なのにパフォーマンスも良くなく、棒に振ってしまった。でも、重ね重ねあり得なくて、当時生意気ながらコーチの人に聞いてしまったんです。「なんで俺を使ってくれないんですか?」って。そうしたら返ってきた答えが「だって、お前、天皇杯もよくなかったじゃん」という言葉。まさにその通りで、公式戦で結果を残せない1年目の若造がいきなり起用してもらえるわけないんです。
じゃあどうするのってなったら、毎日頑張って何かを残すしかない。大前提としてけがで出遅れているわけですし、我慢強く、辛抱強く毎日ベストを尽くして、アピールするしかない。しかも本当にクソみたいなメンタリティで試合に臨んで棒に振っちゃった過去もあるわけですから。だから1年目は本当にめちゃくちゃもったいないことをしてしまいましたね。
それで監督がシモさん(下平隆宏)に代わったプロ2年目、反省を活かそうとまずはけがしない身体づくりに励んで、やれることをまずやる、たとえ試合に出られなくても毎日ベストを尽くすことに重きを置きました。すると、調子は良くて、シモさんのスタイルにもマッチし、本職じゃないCBで試されることも多かったですが、リーグ戦のメンバーにも頻繁に入れてもらえました。
チームは開幕戦の藤枝MYFC戦に引き分け、仙台に負け、カップ戦を迎えたんです。そこでCBで先発させてもらい、まさにあの天皇杯での悔いを晴らす機会として、アシストにつながる前のパスも通すことができ、チームも延長戦の末に愛媛に勝って、そのシーズンの初勝利も掴めた。
その後、リーグ戦は最後の5分や残り1分での出場でしたが、試合に出られることは自分にとってすごい成長で、カップ戦はジュビロ磐田、浦和レッズにも勝ち、アルビレックス新潟には2試合合計で競り負けましたが、一体感もありました。個人的にもカップ戦がなくなったら自分をアピールできる場所がなくなると、緊張はあまりしないタイプですが、かなりピリピリして臨んでいました」

そんな努力を積み重ねてきた瀬畠のもとに届いたのが、当時同じJ2で戦っていたザスパからのオファーだった。
「やっていて良かった、繋がったなと。ザスパの方からも、そういうところを見ていたんだよと言ってもらいました。メンタリティで大きく変わる。本当、勉強になりました」
レンタル移籍した2024年、ザスパはJ3降格を突き付けられた。ただ一方で瀬畠はCBを軸にピッチに立ち続け、選手としてさらに成長。2025年の年末にはザスパへの完全移籍を決断し、ボランチとしてチームの舵を執っている。
今年、上半期の百年構想リーグ、4月8日の第11節、湘南との一戦では、なかなか縁のなかった思い出の地で節目のゲームも迎えた。
「幼少期、一番近くにあったJクラブはベルマーレで、そのスタジアム(レモンガススタジアム平塚)でプロとして試合をするのはなんだか特別な感情がありましたね。途中出場でしたが、逆転勝利でき、勝手にモチベーションが上がる、感慨深い試合になりました」
わがままで不貞腐れることもあった男は、25歳となり、一児の父になったばかりでもある。悔しさ、恥ずかしさ、これまでのさまざまな想いを糧に、ここから階段をより登っていく覚悟である。ザスパとともに昇格を果たせば、その先の未来もさらに広がるに違いない。
「今、自分と同じような若手がいたらどうするか? 気持ちは分かるんですよ。だから分かるよと伝えながら、『だけど、自分のためにどんな状況でも一生懸命やったほうが良い』とは言うと思いますね」
瀬畠の横顔には人生の深みがまたひとつ刻まれていた。
文:本田健介
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