【Player’s Story Vol.04】西村恭史「26歳。群馬と一緒に上がっていく」

今季のザスパ群馬において最多出場数(36試合)、最多出場時間(2,808分)を誇っているのが、移籍加入1年目の西村恭史である。本来はボランチだが、FWやシャドーも務め、センス抜群のプレーで現在チーム首位の7ゴールをマーク。しかし今季、チームは予想外の苦戦を強いられおり、「これだけ出させてもらっているのに、もどかしさがある」と吐露する。それでも11月4日に26回目の誕生日を迎えた男は、新たなリーダーとして、ザスパを引っ張る覚悟を静かに燃やしている(数字はすべて第36節終了時点)。
あのとき、そうでなければ――。
人生に“たら・れば”は禁物だが、誰もが自らの将来を左右するような“岐路”を経験しているのではないだろうか。
185センチの大型ボランチとして注目を集め、高卒でJ1の清水エスパルスに加入した西村恭史は、所属3年目の2020年に飛躍のときを迎えようとしていた。当時の記事を読み返しても、周囲からの期待値の高さが改めて窺える。
しかし、時を同じくして未曾有のパンデミックが発生。新型コロナウイルスの流行によりJリーグは中断し、その後、調子を崩したチームでは西村と相性の良かったピーター・クラモフスキー監督が途中退任。1年を通じ貴重な経験を積んだ西村だったが、「あれが自分のサッカー人生の分岐点やったかもしれない」と振り返る。
もっともその後、ギラヴァンツ北九州、AC長野パルセイロで自信を掴み、今季はJ3で苦戦するチームを救うような活躍を見せているのだ。ザスパに関わる人たちにとっては大きな出会いだったと言える。その意味でも人生とはやはりどうなるか分からない。
そもそも学生時代にサッカーを辞めようとしていた西村も、恩師からの運命的な導きがあった。
今年でプロ8年目。自身も不思議な感覚を抱えているという。
「正直、これだけ続けられるとは思っていなかったですし、高卒としてプロサッカー選手を始めたのがエスパ(ルス)で、先輩からは試合に出られるようにならないと、3年でプロ人生が終わってしまう可能性があると言われていました。その意味ではプロとして、もう8年経ったんだという感覚はありますね」

幼少期を含め、西村のサッカー人生は紆余曲折だった。
「小さい頃は水泳と空手をやっていて、サッカーは、みんなで遊びでやる感じでした。ただ、もう引っ越してしまったのですが、当時は小学校の目の前に家があって、その小学校のサッカーチームには入っていなかったのですが、目の前の校庭で練習をしていたので、混ぜてもらったりしていました。その流れで、親に『サッカーをやってみたい』って言ったと思うんですよね。そうしたら親がもうひとつ隣の小学校のチームも見つけてきてくれて。そっちのチームのほうが成績を残していたんです。だから『みんながおるほうに入るか、隣のチームに入るか、どっちにする?』って親に聞かれて、結局は隣の長野FCに入ることにしました」
大阪府河内長野市にある長野FCは奥田勇斗(セレッソ大阪)、森下怜哉(サガン鳥栖)、戸根一誓(大分トリニータ)、和田達也(福井ユナイテッドFC)らを輩出している、地元では名の知られたクラブである。9歳で本格的にサッカーと向き合い始めた西村もメキメキと力をつけていった。
「当時はFW。自分で言うのもなんですが、もうホンマにセンスで勝負するみたいな感じでした。正直、小学校5年生、6年生の頃は『俺が一番だ』くらいに思っていましたから。サッカーを始めてすぐに地区トレセンや、大阪代表に行かせてもらっていて、うまくいきすぎていました。それでジュニアユースにも上がり、友だちも増えて、サッカーも楽しかった。ただ、自分のひとつ上の代が全体的に強かったんですよ。それこそガンバの堂安律選手や、セレッソにも有名な選手が多かった。
地元でのひとつ上だとブラウブリッツ秋田のGK矢田貝壮貴選手や東京ヴェルディの林尚輝選手もいました。だからアベレージが高くて、僕が所属していた長野FCもひとつ上の代が強くて、僕自身はまだ身長も伸びていなくて『これは無理やな』みたいな感覚だったんです。それで当時は友だちと遊ぶほうが楽しくもなっていた。だから中2ぐらいで親に、『サッカー辞めたい』って言ったんですよ。そうしたら親も『辞めたいなら辞めたらええ』という感じでした。
ただ、Aチームに上げてもらったりもしたので、その後もプレーは続けたのですが、ひとつ上の代が成績を残していたので、僕らの代は大体が関西大会からの出場になる。それこそガンバ、セレッソ、ヴィッセルなどJのアカデミー組織と対戦する機会が多く、僕はスタメンだったりベンチだったり、中学のときは思うような結果は残せなかったですね。だから高校は地元の公立校に行って、サッカーは辞めようと思っていたんです」

しかし、才能を認められていた西村はここで運命的な進学を果たす。長野FCとパイプのあった古橋亨梧(バーミンガム・シティFC)らを輩出した興國高校への入学のチャンスに恵まれたのだ。
「今は福井ユナイテッドでプレーしている先輩の和田達也くんが僕と全く同じルートで、僕も推薦で誘ってもらえたんです。それで(私立高校への)推薦やし、(学費の)免除などもあったので、行かせていただくことにしました。
興國ではもちろん最初はトップチームじゃなくて1年生のチームでプレーしていましたが、これが楽しかったんです。もうホンマ、技術練習ばっかりで、僕は大好きやった。昔からバルセロナなどの海外サッカーをよく見ていて、そういうテクニック系のスタイルに憧れもあったんですよ。
だから練習がめちゃくちゃ楽しくて。そして身長も伸びだしたんです。ただ、身長が急激に伸びた分、フィジカルが追いつかなくて、1年生の頃はトップチームには全く絡めなかった。だから当時は全国を目指すみたいな想いもまだ芽生えてなかったです」
それでも高校2年生で飛躍のキッカケを掴む出来事があった。
「2年になって徐々にトップのAチームでFWとしてプレーさせてもらえるようになり、インターハイ予選で大阪のベスト4まで行くことができました。ただその後の夏合宿で、内野(智章)先生からCBをやってみろと言われたんです。それがめちゃくちゃ嫌で(笑)。CBでどうプレーすればいいかわからないからめちゃくちゃ怒られた。だから、シュート練習をやってFWに戻れるようにアピールしていましたね。
すると、その後に急にボランチにコンバートされたんです。なんだか不思議としっくり来た感覚がありましたね。攻撃もできるし、ボールにも触れる。楽しいと言ったらあれですが、攻守すべてに関われた。
内野先生は、今は奈良クラブ(アカデミーテクニカルダイレクター兼U18監督)で働かれていますが、選手の能力を見極める目は凄いんだと思います。今の自分があるのは内野先生のお陰と言っても過言ではないですから。FWからCBをやって、CBを経験したからこそ、FWの選手にこうしてほしいという視点も養えた。そしてボランチという新たなポジションを与えてくれましたから。内野選手は顔が広いからプロに進む際も助けてもらえました。
僕は興國に行っていなかったら、サッカーをとっくに辞めていたでしょうし、内野先生には一番感謝しています。怒られたときはそりゃあ嫌でしたが(笑)。技術面、サッカーの考え方も教えてもらいましたから」

そしてプロの世界へ、そこでも出会いがあった。
「当初、内野先生に進路を聞かれたときに『大学に行きたい、関西を出たくない』と伝えたら、『何を言ってんねん!!』ってまた怒られて。『お前はできる、絶対にプロに行け!』と言ってもらえたんです。
そこで最初は湘南ベルマーレの練習に行かせてもらったのですが、トレーニングが本当厳しくて全然手応えがなくて。プロは無理なんかなと思っていたところで、エスパルスの練習にも呼んでいただけたんです。するとエスパでは思いのほかプレーできて、ちょっと自信になりましたね。そしてオファーをいただけた。本当にありがたかったです。
最初のクラブがエスパルスで本当に良かったです。すごく良いクラブで。1年目はメンバーには入れましたが、なかなか試合には絡めなかった。もちろんJ1のクラブなので練習の強度も、うまさも高校とは比べものにならなかった。でも、試合に出たい、うまくなりたいという気持ちは強かったですね。しかも髙橋大悟(現・北九州)ら同い年も4人くらいいて、みんなで居残りしたり、朝早く行って練習したり、充実していました」
プロデビューは1年目の2018年4月4日、ルヴァンカップの札幌戦(2〇1)。しかもボランチで先発して同点弾をアシストした。
「あまり緊張するタイプではないんですが、味わったことのないような緊張でした。ソワソワする感覚というか。ミスしたらどうしようという怖さもあった。試合後に両足を攣ったのも覚えています。1年目はケガで出遅れて、ルヴァンカップの第1節に自分以外の若手は出ていた分、デビューできたときはうれしかったですね。改めてプロでスタートできたんだなって」

もっともプロ1年目はルヴァンカップでの2試合の出場に留まり、翌2019年もケガからのシーズンイン。夏にはJ2のファジアーノ岡山への期限付き移籍を選択した。
「結果的に岡山では天皇杯の1試合にしか出場できませんでした。せっかく移籍させてもらったのに力になれず、危機感もあって。当時、自分はそんなに社交的ではなく、周りに積極的に喋りかけられるタイプでもなかったので難しさも感じていましたね。ただ、すごくいい経験もさせてもらえました。驚かされたのは、岡山の選手たちはベテランを含めて誰もがすごく自主練をしていたこと。僕もやらなあかんって、改めて気づかされました。また、コーチのミツさん(戸田光洋/現・大宮アルディージャコーチ)が僕のことを気にかけてくれて、練習後などによく話をしてもらいました。
『若いからとにかく練習して、絶対うまくなるから』って背中を押してもらい、ずっとミツさんと練習していました。ひとつずつのプレーにどんな意図があって、どういうパス、コントロールをすべきなのかなど、教えてもらいました。試合には出られなかったですけど、いい経験をさせてもらいました」
そして冒頭でも記した清水での勝負の3年目。清水に戻った西村はピーター・クラモフスキー監督からの評価も高めていた。
「その年の初戦はルヴァンカップで、アウェイでの川崎フロンターレ戦で1-5。あのときのフロンターレはマジでめちゃくちゃ強かった(川崎は後に同シーズンを歴史的な数字で制す)。自分は公式戦に出るのが久しぶりだったけど、先発で起用してもらえた。フロンターレ戦の敗戦でこれはヤバいと思いましたが、ピーターがそのまま、リーグ戦の開幕スタメンにも使ってくれた。自分的には手応えがあったんです。だから、さあここからと思っていたときにコロナで……」

リーグが中断し、降格も撤廃された2020年、西村はリーグ戦で10試合(436分)無得点、ルヴァンカップで3試合(183分)無得点の成績となった。
「ピーターのサッカーはめちゃくちゃ好きで、よく話もしてくれた。あのままリーグが続いていれば……、まあそればっかりはわからないですからね。でも、出場した試合では個人的に『やれることも多い』と感じましたし、改めて試合に出ることの大切さを学んだシーズンでした」
そこから3年、レンタルでのプレーが続き、2021年は「エスパルスで自分を獲ってくれた方」である小林伸二監督が率いるJ2の北九州へ。チームはJ3降格を味わうが、西村は再会した髙橋大悟らとともにチームを牽引(32試合2得点)。翌年は北九州をJ2に戻すために奮闘し、実現はできなかったが、チームMVPとも呼べる活躍を見せた(27試合1得点)。
そして2023年には「対戦した際にすごく良いサッカーをしていた」というJ3の長野へ。ここでも中盤の軸としてプレーしたが、2024年に向けて決まったのが、清水から長野への完全移籍であった。古巣に戻る道はここで途絶えた。
「もちろん北九州でも長野でもしっかり試合に出て、エスパにまた戻って勝負したい想いはありました。でも結局3年間レンタルでプレーし、エスパもいろいろな選手を獲ったりする中で、仕方ない部分はあるなって思ってもいました。久々にアイスタでやりたかったですし、自信もついていたので、あのタイミングで戻っていたら、どうなっていたかなという想いもありますけどね」
そして、2024年も長野で35試合1得点という成績を残した西村と運命的な出会いを果たしたのが群馬であった。
「去年、長野も(18位でJ3に)ギリギリで残れたなか、群馬が早くから声をかけてくれていたんです。それこそオキさん(沖田優監督)は去年、コンサドーレ札幌とルヴァンカップで対戦したときに僕のことを見てくれていたようで(当時は札幌のコーチ)、いろいろ話をしてくれ、すごく期待してくれていることが伝わってきたので、移籍させてもらうことにしました。群馬もJ2から落ち、僕はJ3の難しさを理解しているからこそ、その経験を還元したいとも考えていました」
そしてチームが苦戦するなか、ここまで新加入ながら最多出場数(36試合)、最多出場時間(2,808分)を誇る。ただ、だからこそ忸怩(しくじ)たる想いもある。
「個人ではキャリアの中で一番良い数字を残せていますが、チームとしては悔しい成績になっています。もどかしい気持ちはずっと抱えています。自分も26歳ともう若くない。これまでのチームではベテランや中堅の選手に任せている部分がありましたが、ここからはピッチ内外で、もっと引っ張る力を示さないといけない。
今の群馬には若い選手が多い分、自分がまとめるような姿勢、試合中にうまくいってないときや雰囲気が悪いときに自分が率先して変えていく。それができれば、今の順位にいるようなチームじゃないですし、試合に一番出させてもらっている身だからこそ、そこの責任はすごく感じています」

11月2日の第34節ツエーゲン金沢戦、キャプテンマークを巻いた西村は先制を許した後の前半アディショナルタイムに貴重な同点ゴールを挙げ、チームを今季初の連勝に導いてみせた。そして11月16日の第36節アスルクラロ沼津戦では、J3残留を決める2ゴールをマーク。まさに有言実行とも言えるだろう。
「自分も試合に出続けてもっと成長しなくちゃいけない。試合に出るからこそ、自分の良いところも課題も改めて知ることができる。10代から20代前半で経験してきたことを今こそ活かしたい」
26歳、これまでと視点も変えつつ、目指すのはより上だ。
「僕はサッカー以外もそうなんですけど、誰かといるのが好きで、清水のときも周りの選手と一緒に頑張りながら、ピッチ外でも横とのつながりを大事にしていました。そういう関係性がプレーにも出ます。相手のことをわかっていたら、こういうパスのほうが良いなど判断できますからね。だからその感覚は大事にしていきたい。どちらかと言うと積極的に喋りかけるタイプではなかったのですが、年齢が下の選手も増え、自分からコミュニケーションを取るようにもしています。
そして理想は群馬と一緒に上がっていくこと。そのうえで、個人的に上のレベルでやりたいという想いは変わらないですし、今の立場も理解していますが、サッカー選手として日本代表を目指すのも当然だと思っています。来年自分がどうなっているかなんてわからないですが、やり続ける。いつか引退する、その日がくるまで、その気持ちは持ち続けたいです」
一見、クールにも映るが、心には熱い覚悟を宿している。新たなリーダーとして、ザスパにさらなる火を灯す存在へ。ポテンシャルの高さとともに誰もが期待している。
文:本田健介
カテゴリ:PLAYER'S STORY




