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2025.10.30

【Player’s Story Vol.03】青木翔大「1日1日、1分1秒、後悔のない日々を」

真面目でどんなときも手を抜かない。「もしかしたら、明日の練習で大ケガをしてサッカーをできなくなるかもしれない。だから1日1日、本当にやれることをやるしかない」。プロ13年目、35歳の青木翔大は常に全身全霊でサッカーに向き合い、所属するクラブのためにすべてを懸けてきた。だからこそ今季、チームの低迷には強い責任を感じ、シーズン終盤戦に向けてザスパを残留させるために戦う覚悟を示していた。

しかし、その矢先に見舞われた大ケガ。それでも不屈のストライカーは、何度も壁を乗り越えてきたように、再び私たちに勇気を届けてくれるはずだ。


なんでこんなことが起きてしまうのか。もどかしさを感じずにはいられなかった。

接触プレーを避けられないサッカーという競技においてケガはつき物だ。ましてインテンシティという言葉が強調されるようになった昨今、身体への負荷は増し、負傷のリスクはより高まっている。

10月4日のFC岐阜戦でJリーグ300試合出場を達成したことを機に取材させてもらった青木もこぼしていた。

「イメージは全然できないですけど、引退っていう言葉は年々よぎるようにはなっています。ただ大切なのは1日1日、1分1秒、その瞬間、瞬間。もしかしたら、明日の練習で大ケガをしたり、今日の帰り道に事故に遭って、サッカーをできなくなったりする可能性もある。だから1日1日、本当にやれることをやるしかない。“そのとき”が来た際に後悔がないように」

覚悟を持ってひとつのプレーに、ひとつの試合に全身全霊を懸ける。それがザスパのストライカー、青木翔大の生きる道なのだろう。

だが、運命は残酷である。10月12日のヴァンラーレ八戸戦。J3でまさかの下位争いに巻き込まれ、クラブとしてシーズンの目標を“残留”に変えたばかりのゲーム。苦しむチームを鼓舞し、背中で引っ張り続けた男を襲ったのは「左足関節靭帯損傷及び脛骨遠位端骨折」という大ケガだった。

八戸戦の数日前、青木はこうも語ってくれていた。

「ここからチームとして本当に一体感が必要になってくると思います。それは選手やコーチングスタッフだけでなく、フロントスタッフ、サポーターの方々も含め、ザスパに関わる人全員で一体感を持ち、どんな状況でも諦めず、戦い続けなくちゃいけない。

クラブは今年で(Jリーグ参入から)20周年で、もっと長い歴史もあります。草津で発祥し、今の強化部長(佐藤正美)もそうですが、過去に在籍した選手たちは働きながらクラブを支え、苦しい思いもしてきたはずです。そのなかで紡いできた歴史を持つこのクラブをJの舞台から落としては絶対にダメです。これまで所属してきた選手たちの想い、応援してくださる方々の想い、そして今は試合に出られていないチームメイトの想いを僕らは背負ってプレーしなくちゃいけない。そこを一人ひとりが意識できれば、ピッチでのプレーも変わるはず。その気持ちを大事に僕は戦っていきたいです」

熱い言葉を思い出すほど、彼の苦悶に満ちた顔を目にした瞬間、心を締めつけられる想いであった。相手選手も必死にプレーした結果である。青木も「真剣勝負のなかで起きたことなので、仕方ないですし、自分の技術不足でもある」と綴る。誰もがケガのリスクと隣り合わせにある。それでも神様はなぜ青木に試練を与え続けるのか。

もっとも世の中にはこんな言葉もある。「神様は乗り越えられる試練しか与えない」。「苦しいことのほうが圧倒的に多かった」という青木はこれまでも何度も壁を乗り越えてきた。それは彼のキャリアを振り返ればよく分かる。

神奈川県厚木市出身の青木少年が本格的にサッカーを始めたのは小学1年生のとき。兄の影響でボールを蹴り始めると、その楽しさにのめり込み、小学生時代は「毛利台FC」でFWだけでなくさまざまなポジションを経験したという。彼のサッカー人生は出会いに恵まれていた。

「小学1年生の頃はお団子サッカーみたいな感じでしたが、トップ下みたいな位置やFWなどもやっていましたね。そこで指導者の方にも恵まれました。僕らの学年は10人ほどいましたが、弱かったというものあって、年齢が上がるにつれて他のチームに行く選手が増え、最終的には4人ほどしか残らなかった。

ただ、僕は監督の教えで上達している手応えがありました。実際に県トレや市の選抜にも入れた。だから僕のサッカー人生、まず小学生時代の監督との出会いが大きかったです。他のチームの人から見たら厳しい指導であったようですが、当時、僕にとってはそれが普通でした。

それこそ4年生ぐらいから、兄貴と同じ6年生の試合にも出させてもらいました。ただ、当時の僕は天狗になっていたのか、『そんな気持ちの入っていないプレーをするならもう練習はやらせない』と監督に怒られたこともありました。気持ちの入ったプレーって、どういうことか分からなくて。兄貴に聞いても、照れ臭かったのかハッキリ答えてくれない。でも兄貴は部屋の前に手紙を置いて思いを伝えてくれました。そんな兄貴の存在はすごく大きくて、僕の指標でしたね。

監督にはその後、実力があっても遊びなど他の誘惑に流されてしまう選手がいることも教えてもらいました。その言葉は今でも頭に残っていますし、その意味でも僕は恵まれたと感じています」

中学時代はJの育成組織のセレクションには受からずとも、兄と比較される環境から一度出ようと、家から少し離れた「フットワーククラブ」のジュニアユースへ進んだ。「今考えるとその選択が良かった」と技術力を伸ばすことに主眼を置いた指導、そしてクラブが運営していた社会人チームの活動にも加わり、力をつけた。

そして進学したのが茨城県の鹿島学園高校だった。家を離れての寮生活。そこで待っていたのは雌伏のときだった。なかなかピッチに立てず、ひとりグラウンドで練習する日々。チームは高校3年時に選手権ベスト4入りを果たしたが、自身はレギュラーを最後までつかめなかった。それでも音を上げなかった。

「1年の頃は当然Bチームでしたし、最後の選手権でもベンチで過ごす時間が長かったです。年下の選手が試合に出ていた時はもちろん悔しかったです。でも、自分の力が足りないんだと練習を続けましたね。だから、チームで1番練習していた自負はありましたし、みんながオフで遊びに行っているときも、ひとり練習していました。朝練を含めて、高校3年間ずっと。だから本当にサッカー漬けの3年間だったんですよ。

親元を離れていたので中途半端なことはできないという想いがありましたし、サッカーがうまくなりたい一心でもありました。その経験は今でも活きています。

今思えば僕だけ理不尽な指導を受けたこともあり、正直、本当にキツかったときもありました。1回だけ親に『もう辞めたい』って、泣いて電話したこともありました。でも、やるしかないっていうところに行きつくんですよね。それに自分の心を保つには練習するのが一番でしたし、誰もいないグラウンドでボールを蹴るのも好きでした。プロになった今、振り返っても、同じことは絶対にしたくないですが、そのときもチームメイト、同級生にも恵まれて、相談相手や練習相手になってくれました。だからやっぱり僕は人に恵まれているんですよね」

純粋にサッカーを愛し、自らと向き合う日々。それは桐蔭横浜大でも変わらず、就職は考えなかった4年時、J2の横浜FC加入を勝ち取った。1年目の2013年、チームには“キング”カズこと、三浦知良ら日本代表を経験したベテラン勢がズラリと並び、自らを導いてくれる先輩もいた。青木にとってはかけがえのないプロ生活の始まりだった。

「僕は期限付き移籍もあったので(2013年の夏から半年は当時JFLのAC長野パルセイロ、2014年は当時J3のFC琉球へ期限付き移籍)、カズさんとは1年半ほどしか一緒にプレーできませんでしたが、当時の横浜FCには経験ある選手が多く、本当に勉強になりました。

カズさんから学んだのはサッカーに取り組む姿勢。練習は9時半開始でしたが、カズさんは大体7時半ぐらいには来られていて、準備をしていた。大学時代の僕は練習の30分前に行くことが多く、1時間前に行っても準備らしい準備はしていませんでした。でも、練習中の振る舞いを含め、プロとはこうあるべきだという姿を目の当たりにし、誰もがサッカーに懸けていることを教えてもらいましたね。

(2016年に)沼津に行ったときもひとつのターニングポイントでしたが、横浜FCでの3年目(2015年)も自分の中では非常に大きかったです。試合にはなかなか出られませんでしたが(J2で1試合/0得点)、プロ生活13年のなかで一番成長できたと感じています。

前年は期限付き移籍した琉球(J3)で、累積だった1試合を除き、すべてスタートで起用してもらい、チーム得点王となる7ゴールも挙げられました。意気揚々と横浜FCに戻り、キャンプでも調子が良く、手応えがあったんです。でも蓋を開けたら全くメンバーに絡めない。そのときに今、いわきFCでコーチをされている渡邉匠さんに『お前、それ勘違いだよ。それは自信じゃなくて過信だよ』と言ってもらえて……。J3で結果を残して帰ってきたから、それまで聞く耳を持てなかったんですが、そのときにようやく自分の立場に気づけて……。

正直、匠さんは僕のことをウザく感じていたと思うんです。『サッカーを教えてください』みたいな感じでずっと匠さんと一緒にいるようにしていましたから。匠さんもなかなか試合に出られず苦しいときだったはずです。でも『ここにポジションを取ったらこうなるでしょ』というように、本当に丁寧に説明してくれたんです。

また他のベテランの方も、ケガを抱えていたときにずっと一緒に練習してくれました。学びの連続でしたね。今、大分で10番を付けている野村(直輝)も同じ境遇で、午前中にチーム練習をして、終わったらすぐ帰って、コーチの方々も含めてみんながいなくなったぐらいにもう1回クラブハウス戻り、野村とふたりでずっと練習していました。そして分からないことがあったら、ベテランの選手や匠さんが教えてくれ、励ましてくれた。あの1年がなかったら今の僕はいないです」

しかし、2015年の年末、横浜FCからは“ゼロ円提示”を示された。

「結局3年目は、1試合のみ11分しか出られなかった。もちろん悔しさもありましたが、妥当は妥当だし、自分の力不足だなと思いましたね」

そしてトライアウトを経て10チームほどからオファーを受けたなか、吉田謙監督(現・秋田監督)からの強い誘いで、当時JFLを戦っていたアスルクラロ沼津を新天地に選んだのもなんだか青木らしい。

「沼津ではゴンさん(中山雅史)やテルさん(伊東輝悦)とも一緒にプレーできて、そこでも大きな勉強になりました。さらに、僕が加入した当時(2016年)は、僕以外の選手はみんな仕事をしており、自分ひとりだけがプロ契約みたいな感じだったんです。そのなかで、僕は沼津で絶対に這い上がってやるっていう覚悟で行きましたし、這い上がれなかったら、サッカー人生終わりだっていうくらいの想いがありました。

そこでチームに入ってみると、誰もがJリーグでプレーしたいという強い気持ちを持ち、サッカーも仕事も全力だった。その意味ですごくハングリーな集団でしたね。そしてゴンさんらベテランの選手も意識が高く、全員が上昇志向の塊だった。吉田監督が『うちのチームには中途半端なやつはいない』と話していたのも納得がいき、その環境でプレーできたのもすごく大きかったです」

そこから沼津で3シーズン、群馬で3シーズン、ブラウブリッツ秋田で3シーズンを過ごし、群馬に所属していた2019年にはプロキャリアで唯一、ふた桁得点を取ったが、右膝前十字靭帯断裂の大ケガも経験した。どんなときも全力だったが「僕が常にふた桁を取れていればチームはより上に行けた」とFWとして悔いも抱えてきた。

そして2025年、導かれるように復帰した群馬でも、「朝は大体2番目。一番早いのは小柳(達司)さんで6時半ぐらいには来ていて、そのあとが僕か玉城(大志)。帰りはケアなどをしていたら、16時とか17時くらいですかね」とサッカー漬けの日々を過ごしている。「具体的なことは書かないでください」と本人に言われてしまったが、個別トレーニングや私生活でも意識は非常に高い。もっとも、そうした取り組みは青木にとって努力に入らないのだという。

「これまでやれることはすべてやってきたつもりですが、まだ何かできたんじゃないかという想いもあります。もっと突き詰められたのではないかと。何が正解かは分かりませんし、毎シーズン、トライアンドエラーの繰り返しです。そうした取り組みが努力かと言われれば、僕は努力とは呼びません。それは目に見える結果を残せていないから。結果がセットじゃないと、努力に入らない。結果が出てようやく正解だと言える。もしかしたら、今の方法を取らないほうが結果を残せたのかもしれない。でも、やらない後悔より、やった後悔のほうが僕は良いと思う。それに僕は才能がない分、人の倍以上やんないと身につかないですから」

だからこそ先日、達成したJリーグ通算300試合出場に関しても、「まだまだ」と繰り返す。

「全然です。自分が目標としてきた選手や一緒にやらせてもらった選手と比べるのも、おこがましいですが、そういう選手はもっとすごい試合数に出て、代表に選ばれている。僕なんてまだまだ足元にも及びません」

そんな自分にストイックな男だからこそ、低迷する今の群馬の成績には強い責任を覚えてきた。

「後悔しないように、より思ったことは口にするようにもしています。失点シーンでも、あのとき言っておけば良かったとか、得点になりそうなチャンスでもこう話しておけば良かったというシーンはあるので、後悔しないように」

青木の熱に背中を押されるように、チームは10月25日の奈良クラブ戦で10試合ぶりの勝利をつかんだ。まだ予断は許さない状況だが、それでも青木の想いはチームに宿っているはずである。

そして自身も復帰へと戦いを始めているに違いない。再びピッチで大好きなサッカーに向き合うために。残留というタスクを仲間に託し、青木は一歩ずつ地道に進んでいく。その姿が周囲に活力を与えるはずである。青木の魂はザスパとともにある。

文:本田健介

カテゴリ:PLAYER'S STORY