【Player’s Story Vol.02】髙澤優也「決して薄れないゴールを決める自信」

周囲の期待を集める、なんだか不思議な引力があるストライカーだ。昨季、5年ぶりにザスパ群馬に戻り、悔しき降格を経験したが、ゴールを奪うという自信にブレはない。話を聞くほど根っからの点取り屋だと感じる男は、自然体で、ただ熱く、これまでもゴールという結果だけを見つめてきた。
「俺、挫折とかないんですよ。大丈夫ですかね?」
席につくなり、いきなり朗らかな性格全開だ。
「いやいや、そんなことはないはずですよ!!」
微笑ましいやり取りをしながらのインタビュースタートとなった。
ザスパ群馬の10番を今季から背負うのが、28歳となった髙澤優也だ。
「ペナルティーエリア内でのクオリティはそれなりに自信があります。だからボールさえくれば、点を取れる自信はありますね。それはプロに入ったときからずっと変わらないです」
生粋のストライカーは、しかし、東京都葛飾区で育った。幼少期はドリブルが大好きで、GKも兼務していたという。
「あんまり鮮明には覚えてないですけど、小学生のときってポジションがどうのこうのってあまり決まっていなかったじゃないですか。そのなかで僕はずっとドリブルをしていて、楽しかったイメージがあります。相手を抜く快感を味わっていました。基本はフィールドプレーヤーだったんですけど、ときどきGKもやっていて。GKで柏(レイソル)のジュニアユースの最終セレクションまで残った? そうそう。フィールでも受けたんですけど、GKでなぜか最後まで進んで。何が評価されたのかは分からなかったです(苦笑)」
そんな髙澤少年がストライカーとして目覚めたのが、地元のジェファFCというチームに所属した中学時代であった。
「それまではFWで点を取りたいっていう欲みたいのはあんまりなかったんです。中学に上がってもあまり変わらなくて。ただ中学の最後の高円宮杯で、FWとして点を重ねて、チームが初めて関東大会に出場した。そのときに急に点を取る楽しさ、喜びに目覚めたという形でしたね。中3の終わりくらいだったと思います」
眠っていた“点取り屋”としての才能が、遂に目覚めたという感覚か。ストライカーという生き物は特別だと言われるが、彼はその素質とようやく向き合うことになったのだろう。もっとも「コーチに声をかけてもらった」と進学した名門・流通経済大柏高校では、カルチャーショックとも言うべき、厳しい環境に衝撃を受けた。
「最初に挫折はないと話しましたが、もし挙げるとすれば高校時代ですかね。中学時代も練習は厳しかったですが、仲間たちと楽しく、そこまで苦しむことなくやっていましたが、流経はうまい人たちが集まる場所で、最初は試合にも出られなかった。そのときはちょっとさすがに落ち込んだというか、挫折って言って良いのか分かんないですけど、苦しさはありました」
当時の本田裕一郎監督(現・国士舘大の総監督)の指導も今の髙澤の中に脈々と生きている。高校サッカー界の名将の教えは愛と厳しさが満載だった。
「試合に出られるようになったキッカケはあったと思うんですけど、あんまり覚えていなくて。でも高校1年生のときに初めてインターハイのメンバーに入れてもらい、そこからですかね。とは言え、高校時代は3年生で、高校サッカー選手権のベスト4に入った思い出がより強すぎて、あまり他のことを覚えてないんです。
でも正直、キツかったですね。日々の練習で良い思い出はないです。本田先生、本当に厳しかったですし、それこそ理不尽なこともありましたから(苦笑)。ただ、当時はそれが当たり前だと思って必死に食らいついていました。今、当時を振り返ってみれば、高校時代に人間として成長することができましたし、やっぱり本田先生のおかげで今の自分がある、そう思っています。ただ、当時と同じ練習をもう一度やれと言われれば嫌ですけど(笑)」
第92回の高校サッカー選手権大会(2015年)、流通経済大柏高は1月10日の準決勝で前橋育英高にPK戦の末に敗れたが、9番を背負い、計3ゴールをマークした髙澤の名前は大きく注目された。しかも3年間同じ釜の飯を食べたDF小川諒也(現・鹿島アントラーズ)はFC東京加入が内定していた。
「俺だって」
そんな感情を抱くのは当然の流れだ。もっとも真偽は不明だが、髙澤は進学した流通経済大学で、さらに4年間、研鑽を積むことになった。
「自分の中ではプロという考えはもちろんありました。でも、これはあくまで噂ですが、本田先生はJ1からのオファーじゃないと断るみたいな話を聞いたことがあって……。実際に、僕のところには何も話はこなかったんです。でもそれが当時の実力だったということだと思います。同期の諒也が高卒でFC東京に行くことは、もちろん悔しかったです。でも、流経大は多くのプロ選手を輩出してきた大学なので、そこで頑張りたいという思いでした」
そう決意して進学した大学でも、名将との出会いがあった。大学界を代表する中野雄二監督だ。その意味で髙澤は良き指導者と巡り会ってきたと言えるのだろう。もっとも中野監督からは呆れられるような言葉もかけられた
「君たちの代は3本の指に入るぐらい手のかかる代だ」
小池裕太(現・ヴィッセル神戸)、小野原和哉(現・ブラウブリッツ秋田)、相澤祥太(昨季・南葛SCで引退)、新垣貴之(現・FCセリオーレ)ら同期には、後にJの舞台に進む粒が立ったメンバーが揃っていた。
「個性が強すぎる選手の集まりで、(小池)裕太もクセが強いですし、小野原、相澤らも我が強い。ピッチ内外で迷惑ばかりかけていました。僕はその中でも、うまくやっていたほうだとは思いますが(笑)」
髙澤はそんな個性派集団の中で決して埋没せず、目標を貫いた。卒業が近づく頃、運命的な出会いを果たしのだが、当時J3に所属していたザスパ群馬だった。
「僕はプロに行くことしか考えていなくて、周りのみんなは就活をしていましたが、僕は一切見向きもしませんでした。目指していたのはプロの世界だけ。そのために毎日プレーしていましたから。でも、なかなか声がかからず……。水戸(ホーリーホック)の練習にも行かせていただいたのですが、正式なオファーはいただけず。ちょうどその頃、群馬の練習にも参加させていただいて、誘ってもらえたんです。流経大から群馬というコースは、江坂任さん(現・ファジアーノ岡山)が辿った“出世コース”と言われていて、『ぜひ』と入団させていただきました」
布啓一郎監督が率いていた2019年の群馬で、22歳の新人ストライカーはピッチに立てばゴールを奪える自信があった。その自然と湧き出るギラツキこそが、この男の最大の魅力と言えるのだろう。開幕戦の85分にいきなりデビューを飾ると、その後も交代出場を続ける。短い出場時間でなかなか結果はついてこなかったが、5月18日の藤枝MYFC戦で初先発を掴むと、続く東京国際大との天皇杯でプロ初ゴールとなる決勝弾を奪い、一気に流れに乗った。第10節のFC東京U-23戦、第11節のガイナーレ鳥取戦ではともに2ゴール。
終わってみれば大卒新人ながら27試合でチームトップ、リーグでは2位となる17ゴールを稼ぎ、群馬のJ2復帰にも大きく貢献してみせたのだ。当時、頼れる先輩がクラブにいたのも大きかったと髙澤は振り返る。
「(渡辺)広大さん、てっちゃん(舩津徹也)、ふくちゃん(福田俊介)ら年上の選手たちが若手をかわいがってくれて、何もストレスなく、本当に自由にやらせてもらえました。『ゴール前にいろ』みたいな感じだったのですごくやりすかったですね」
そんな売り出し中だった髙澤に舞い込んだのが、J1の大分トリニータからのオファーだった。
「プロ1年目の結果はすごく自信になり、昇格も経験でき、先輩や仲間にも恵まれ、充実したシーズンでした。だから群馬には感謝していましたが、選手としてJ1でプレーしたいという気持ちも芽生えていました。裏話をすると、当初、前年にJ2に降格していた松本山雅FCに、吉田将也とふたりで移籍するという話もあったんです。群馬を指揮していた布さんが、松本の監督に就任した背景もあったので。
でも、同時にJ1の大分からもオファーをいただけたんです。どの道に進むべきか、悩み、広大さんらにも相談し、『チャンスがあるならJ1でチャレンジすべきじゃないか』と背中を押してもらいました」
成長させてもらった群馬を出て、J1での挑戦。リーグのカテゴリーがふたつ上がるのだから、少しは臆する部分も出そうだが、強気な姿勢はやはり変わらなかった。J1デビュー戦となった第3節のサンフレッチェ広島戦では、83分に出場し、ファーストタッチでネットを揺らしてみせた。
「やっぱり自信は1試合目でつきましたし、J1でもやれるっていう想いが芽生えました。サンフレッチェ戦のファーストタッチでのゴールも忘れられない得点になりましたね。改めて出してもらえれば点を取れる自信はありましたし、喜びもそうですけど、周囲に対しても『見たか!!』みたいな誇る気持ちもありました」
その2020年は大分で24試合6得点の成績。初のJ1ではまずまずの出来と言えた。ただ、続く2021年は大分で9番を託されるも、出場機会には恵まれず、夏にJ2のアルビレックス新潟へ期限付き移籍。華麗なパスサッカーで話題を呼んだアルベルト・プッチ・オルトネダ監督(FC東京時代の登録名はアルベル)の下で貴重な経験を積み(13試合1得点)、2022年には大学時代にコーチとして支えてもらった天野賢一監督に誘われJ3のギラヴァンツ北九州へ(19試合7得点)。
そして2023年は黒田剛監督の下で大きな注目を浴びたFC町田ゼルビアへ移籍するが、左アキレス腱を断裂することになる。
「こういう性格なんで、私生活でもサッカーでもあんまり嫌なこととかなく、悩みもないし、落ち込むこともない。なんで自分が試合に出られないんだろうと思うことはありますが、ナイーブになることは今もないですね」と笑う髙澤だが、初の大ケガはさすがに落ち込んだのではないか。しかも、同時期にヒビの入っていた中足骨も骨折し、アキレス腱とともに2度の手術を強いられていた。しかし、そんな状況でも髙澤は髙澤だった。
「ショックを受けるって思うじゃないですか。でもケガしちゃったなら、しょうがないなって。そりゃ(ケガをした)当日は思うところもありましたが、選手はケガするものですし、次の日からは切り替えていましたね。これでサッカーを一生できないとなったら話は別ですが、僕の前に宇佐美貴史選手(G大阪)がアキレス腱断裂から復帰する姿も見ていたので、リハビリしたらまたサッカーができるなって」
だからこそ長期のリハビリも苦にならなかった。
「僕自身、今を楽しまないと、そのときにできることをしないと後悔すると、いつも思っているんですが、地元の東京だったし、周りには友達がいたので、復帰までには7か月ぐらいかかりましたけど、リハビリ期間も楽しく過ごすようにしていました」
そして昨季、髙澤は群馬に5年ぶりの帰還を果たした。しかし、チームはJ3に降格。自身も21試合3得点と悔しい結果となった。
「かつて自分たちの手でJ2に上げたクラブを、自分が所属しているときに降格させてしまったのは本当に申し訳なく……。ファン・サポーターには申し訳ないという思いしかありませんでした。個人としても期待していただいて戻ってきたのになかなか結果を出せず……。でも、またみんなでこのクラブを上げたいと、今はそれだけを考えています」
今季は離脱期間もあったが、第25節のカマタマーレ讃岐戦(8月31日)、第26節のFC琉球戦(9月6日)で連続ゴールを挙げ、「改めてボールさえもらえれば決める自信はある」と強調していた。しかし直後に左膝内側側副靱帯を損傷。チームも苦戦が続くなかで忸怩(じくじ)たる想いを抱えているはずである。
それでも髙澤は力強く復活してくれるに違いない。
「ゴールを決める自信はある」
彼がそう語る限り、このストライカーへの期待が薄れることはない。
文:本田健介
カテゴリ:PLAYER'S STORY