【Player’s Story】風間宏希「救ってもらったザスパのために」

今季は長期欠場を経験したが、復帰戦となった7月26日鹿児島ユナイテッドFC戦では見事なゴールを決めた。34歳。酸いも甘いも経験してきた風間宏希は常に自身にベクトルを向け続ける。毎日、妥協せずに過ごしてきたからこそ口を突くのは「後悔はない」という言葉だ。「救ってもらった」愛するザスパ群馬のために戦うその背中には、歩んできた彼の軌跡が刻まれている。
「後悔はない」
これまでの歩みを振り返った風間宏希の言葉にはさまざまな想いが詰まっている。
プロ16年目、ザスパ群馬所属は通算5年目。6月に34度目の誕生日を迎えた男は、プロ選手生活でひとつの意識を貫いてきた。
「僕自身は毎年何か新たな発見をしながら、成長を実感できるように選手生活を送らせてもらっています。でもプロで居続けることは簡単ではない。そのなかで、毎日毎日、自分自身が納得して終わると言いますか、妥協せず、後悔がないように過ごすことを意識してきた面はあります。これからも、それは続けていきたいですね。
あれ、でも、今話していて、僕そんなに毎日ストイックにできているのかな? ちょっと自信がなくなってきました(笑)」
日々の過ごし方を改めて思い出すように宙を見つめる風間だったが、刻んできた足跡は確かである。
清商(きよしょう)の愛称で親しまれた清水商業高校(現・清水桜が丘高校)卒業後にヨーロッパへ渡り、ロウレターノ(当時ポルトガル3部)、コブレンツ(当時ドイツ4部)でプレー。約2年の挑戦を経て、2012年7月には父・八宏が指揮していたJ1の川崎フロンターレに加入した。しかし、1年目は16試合0得点の成績を残したが、フルシーズンを戦った2年目は1試合0得点。ここでひとつの大きな転機を迎えることになった。
「ここまで才能があっても続けられない選手をたくさん見てきて、やっぱりサッカー選手を続けるのは、簡単なことじゃないとすごく感じてきました。だからこそ、悔いのないように。(ギラヴァンツ)北九州にいたときくらいですかね(2014-2016年)、そう意識するようになりました。
当時、川崎を契約満了になって、それこそなかなかチームが決まらなかったんです。その時に北九州に拾ってもらえた。だからこそ僕のサッカー人生、ここでダメだったら、終わりだなって考えるようになったんです。23歳くらいですかね。やっぱり才能だけでは続けていけないと感じて、みんな試合に出るために考え、技術、フィジカルを上げ続けている。そうじゃないとどんどん変わっていく世界。でもせっかくプロになったし、これで終わりたくなかった。運もありますけど、頑張らなくちゃいけないと思いました」
所属先が欧州→J1→J2と変わっていく流れに葛藤があったのかもしれない。それでも生き残るために必死に目の前のことに挑む。真のプロ選手としての矜持を形成していった時期とも言えるのだろう。
すると当時J2の北九州では柱谷幸一監督の下、1年目の2014年にうれしいプロ初ゴールを含め、ボランチとして38試合6得点の成績を残してチームの5位躍進に大きく貢献。2年目、3年目もボランチとして全試合出場を果たした。
キャリアで最も印象に残っているのも北九州での得点であった。
「これまでで一番うれしかったのは北九州でのジュビロ(磐田)戦でのゴール。移籍してきた2014年(4月)にホームで3-2で勝ったゲームですが、3点目を僕が決めたんです。そのゴールと(2試合前のカマタマーレ)讃岐戦で取ったJリーグ初得点はやっぱり印象に残っていますね。さきほども話したとおり、これが最後、これがダメだったら……と思って臨んだシーズンだったので、そこで点を取れ、これで少しやっていけるのかなって思った瞬間でもありました。ジュビロとは川崎時代にJ1で試合をしていましたし、その相手に対して、自分はまだ戦えるって思わせてくれる自信になるゴールでした」
もっともすべてが順風満帆にいかないのがプロの世界の厳しさなのかもしれない。
2017年に移籍したモンテディオ山形では21試合0得点の成績を残したが、7月以降、ピッチに立てない日々が続いたのだ。
「もうひとつ、自分のターニングポイントになったのは山形から期限付きでザスパに来られたこと。山形でも貴重な経験ができましたが、途中から試合に出られなくなり、『環境を変えなくてはいけない』と思っていたときに声をかけてもらえたのがザスパでした。
正直、当時のザスパはJ3だったので悩んだ部分もありました。でもU-19日本代表で指導を受けた布(啓一郎)監督、今もクラブにいる強化部の佐藤(正美強化部長)さんに『来てほしい』と熱心に誘っていただき、ここでダメだったらもう次ないなと思って来させてもらいました。
だからザスパで試合に出させてもらい、僕は救ってもらったと、強い恩を感じています。自分のいろんな可能性を広げられました。その後、(J2・FC)琉球にも熱心に誘っていただき移籍をしましたが、ザスパには本当に感謝していたし、またいつか力になりたいと、3年前(2022年)に再びここに来させてもらいました」
ザスパには今季で通算5年目の所属。7チームでプレーしてきた風間にとっては最も長い年月を過ごす特別なクラブとなった。だからこそ、昨季のJ3降格には責任を感じ、離脱期間が短くない今季はJ2復帰へチームのために少しでも貢献したいとの想いも強い。
「昨年のように、あそこまで勝てなかったシーズンを僕も経験したことがありませんでした。みんなで立て直そうとはしていましたが、一度、ああいう流れになってしまうとなかなか難しく……。非常に悔しかったです。でも、少しでもポジティブに考えるなら、あの経験をしたことで、チームのまとまりが本当に大事だと勉強させてもらいました。今、自分はベテランとしてこのチームにいるので、みんながバラバラにならないように考えながら、プレーしています。
しっかりと背中で見せる。そういう気持ちでも臨んでいます。個々に話しかけたり、練習の雰囲気をピリッとさせたりとか、そういう感じでやろうとは意識していますね」
ケガが少ないキャリアにおいて今季は筋肉系のトラブルに見舞われ、状態が上がってきた矢先に内側側副靭帯を痛めてしまった。それでも復帰戦となった7月の鹿児島戦では気持ちのこもったゴールをマーク。その後は中盤で先発を続け、「ボールフィーリングなども良くなってきている」と手応えを示す。
34歳の現在、「年齢に抗おうって気持ちはないんですが、セーブしていたらどんどん落ちていく」とも話す。
「やっぱり自分自身のやれることを毎日やる、そこですね。ただ、今回の2回目のケガは競り合いでの接触によるものでしたが、筋肉系のケガは初めて。多少なりとも身体は変わってきているとも感じます。だから、今はオフの日も必ずクラブハウスかジムに行って体を動かしています。
トレーニング量は、若いときに比べて増えていますね。セーブしていたらどんどん落ちていくので、負荷をかけながら、少しでも成長できるように。サッカー選手は契約満了って言われてプレーできるチームがなくなったら終わってしまう。でも抗うというよりは、自分にできることを全力でやっていきたいと考えています」
川崎時代には指標となるような選手にも出会った。
「多くの尊敬できる先輩たちと接してきましたが、中村憲剛さん、大久保嘉人さんを見て、こんなにすごい選手がいるのかって驚きました。練習に臨む姿勢ももちろんですが、やっぱり試合で見せるプレーのレベルが高い。嘉人さんは練習が終わった後も納得がいくまでシュート練習をしていて、3年連続の得点王に輝きました。やっぱり上に居続けるために努力をしていた。その意味では僕は出会いに恵まれ、自分が少し活躍したぐらいで満足しちゃいけないって思わせてもらいました」
そうした風間の背中は、今度はザスパの若手たちの道しるべになるはずだ。風間も易々とポジションを明け渡すつもりはないが、バトンは確実に受け継がれていく。
振り返れば、学生時代の夢とは異なる歩みにはなった。
「これまでの得点数やアシスト数などは決して満足できるものではないですよ。そりゃ高校生のときには、日本代表になって、海外で活躍して、ワールドカップに出て、UEFAチャンピオンズリーグでも結果を残す、そんな目標を立てていましたから。現状はそんな夢とはかなりの差があります。
でも、思い描いたとおりにできたわけではないですが、振り返ってみると後悔はない。いや、瞬間瞬間では悔しさは残っています。でもこれが自分のサッカー選手としての人生だって胸を張れますし、手を抜かずに生活してきました。
ってこれ、引退するみたいになっています(笑)? まだまだザスパのために頑張りますよ。一番の理想は、このチームでJ2に上がること。個人としては、そこに貢献したい。そして自分自身、選手生活が終わるまで常に成長したいですね」
風間八宏という偉大な父を持ち、弟の宏矢(シンガポールのタンピネス・ローバーズ所属)とともに、“二世プレーヤー”とも呼ばれてきた。それでも、風間宏希はひとりの選手として、自分だけのサッカー人生を全力で駆け、それはザスパのために戦う今後も一切変わらない。
「サッカーで一番影響を受けたのはやはり父であるのは間違いないですが、弟の存在もすごく大きかった。ただ『父にアドバイスされたことは?』ってよく聞かれるんですけど、基本ないんですよ。プロサッカー選手になってから父に指導を受けたのは川崎時代だけで、父は自分をひとりの選手として見てくれた。
あ、でも小さい頃に『試合に負けたら自分の責任。どんな試合でも自分が点を取ったらチームを勝たせられるだろう』っていうような言葉をかけてもらったのは覚えています。それは今でも心のなかに残っていて、今でも負ければ、自分にできることがもっと何かあったんじゃないかと考えています。でも本当にそれぐらいで、むしろ今は僕らの試合を見ていないのかもしれない(笑)。
高校生の頃までは“風間八宏の子ども”と見られたり、多少のプレッシャーはあったかもしれません。でもプロになったら関係なく、周りに言われても気になりませんでした。自分は自分ですから。ひとりの息子であり、父は父。普通の親と変わらないですよ。弟の宏矢も多分そうだと思います。
宏矢に関してはライバルっていう意識はまったくなく、彼の成功を願っています。宏矢がいたから僕もサッカーをここまでやってこられましたし、宏矢が頑張っているから自分も頑張れる。姉ふたりもいましたが、小さい頃からずっと宏矢と一緒にボールを蹴ってきましたから。今でも頻繁に連絡を取っていますよ。うちの家族はすごく仲が良いですが、各々が自立し、いざとなったらみんなで助け合う。そんな感じですかね」
過去には海外への再挑戦にも憧れたが、「その時々で一番自分を欲してくれるチームのために戦いたい」と選択してきた。人の“熱意”“志”に惹かれるのは父と同じだ。そのなかで辿り着いたのが群馬の地だ。稀有な歩みがザスパでどう昇華されるのか。不断の努力が歓喜に変わる瞬間を心から望みたい。
文:本田健介
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