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TOP TEAM 2024.11.12

細貝萌選手現役引退記者会見レポート

2024年11月12日(火)にGCCザスパークにて開催しました、細貝萌選手の引退記者会見をレポートにてお届けいたします。なお、同日に開催しました細貝萌の社長代行兼ゼネラルマネージャー就任会見のレポートは、近日中にお知らせいたします。また、会見全体の模様は近日中にザスパ群馬公式YouTubeにて公開予定ですので、公開までしばらくお待ちください。

【細貝選手あいさつ】

「改めまして、2024シーズンでサッカー選手を引退することになりました。

20年間、本当にありがとうございました。」


【質疑応答】

■20年のプロサッカー選手生活は振り返ってどんな時間だったか
2005年にプロサッカー選手になってから今年で20シーズン目、今思えばあっという間だったという想いでいます。

僕自身はプロサッカー選手を夢見て、小さい頃からサッカーをずっとやってきて、その中でたくさんの方に支えてもらって、たくさんの方が自分のことを気にかけてくれて、本当に幸せな20年間だったなと思います。そしてこの20年間でサッカーが自分に与えてくれたものは非常に大きくて、ほとんどのものをサッカーが自分に与えてくれたなと思っています。

■ザスパでプレーした4年間について
先日のセレモニーでも少しお伝えしましたが、地元であるこの群馬でサッカー選手を終えられたことをすごく幸せに思っています。

やはりもっとサッカー選手としてピッチ上で、チームにとって勝たせられる選手でいたかったということが正直なところではありますが、それでもたくさんの方がプライベート含めて声をかけてくれて、応援してくれて、それを感じることできた4シーズンで、本当に幸せな時間だったと思います。

■引退を決意した経緯、決め手は
20年間サッカーをやってきて、これだけ試合に絡めない時間というのがルーキーの時を含めてもなかなかなかったので、この2シーズンで選手としてチームに貢献できていないことを考えるとやはり「そろそろなのかな」ということが自分の心の中でずっとあって、かといって違うクラブでサッカーをやる選択肢は自分の中では無くて、自分がやれることをやってチームの力になりたいと思っていました。結果としてなかなか試合に絡めなかったのですが、必死に自分の中で、自分自身と向き合って、毎日練習に励んでいました。

■引退を伝えた時のご家族や周囲の方々の反応は
早い段階で周りに伝えられなかったのですが、今シーズンの半ばくらいで家族とこういった話をしていました。

(引退の件を)チームのみんなに悟られてしまうとチームにとって悪影響だと思っていましたし、特に今シーズンは結果を残していけない中で、チームのみんなの邪魔だけはしたくないと、できる限りサッカーを辞めることは隠して、家族とだけ話して決断しました。

家族は今までサッカー選手でいる時間はずっと意思を尊重してくれていましたし、家族に「サッカーを辞めようと思う」と言った時は「自分で決断したのであればそれが良いんじゃないか」というのは妻が言ってくれました。

■プロキャリアをスタートした浦和サポーターとのエピソードがあれば
2005年に前橋育英高校を卒業して、浦和レッズというビッグクラブに入団させてもらったことで、僕のプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせてもらった。あのスタジアムの、たくさんの方々の前でプレーしたいと思って加入させてもらいました。そこからヨーロッパに行くまでは日本代表に入っていても浦和レッズの為に素晴らしい結果を残せなかったので、今でも申し訳ないという気持ちでいます。それでも自分の若い頃を知っている方々から引退に際して多くのメッセージを頂いて、自分が思っていた以上にたくさんの方々に支えてもらった6シーズンだったなと思っています。

■浦和レッズサポーターの応援の雰囲気でプレーできたことはご自身にどんな影響を与えたか
ヨーロッパに行くまで浦和レッズというクラブしか経験したことのなかった自分にとって、そこからたくさんのクラブを渡り歩いてきましたけど、あの環境でプレーさせてもらったこと、あの6シーズンがその後のサッカー人生で、サッカー選手として戦う上で強くさせて頂いたクラブだと思っています。

■ルーキーイヤーの2005年にどんなことを支えに頑張ってきたか。そして今試合に絡めない若い選手たちにアドバイスを
2005年に浦和レッズに加入させて頂いたものの試合にはなかなか絡めませんでした。その中でも環境が素晴らしかったこと、素晴らしい先輩方がいたこと、そしてその先輩方と一緒に毎日プレーできたことが何よりも自分が成長できたことだと思っています。

正直なところ高校を卒業する時に「浦和レッズには行かない方が良いのでは」という助言もたくさんありました。それは浦和レッズというクラブはビッグクラブで、若いオリンピック代表選手も含めて日本代表選手もいて、試合に出ることを考えたら他のクラブに行った方が良いという意見もあった中で、たくさんの方の前でプレーしたかった気持ちと試合に出ることよりもたくさんの素晴らしい先輩方と一緒にプロサッカー選手としてのスタートを切れること、その為に浦和レッズに行ったので、その環境でプレーさせて頂いたことがこの20年を作ってくれたことは間違いないので、すごく感謝しています。

試合に絡めていない若い選手たちに伝えたいのは、サッカー人生においては厳しい時もあると思いますが、自分がどうあるべきか、どうなりたいか、どの先輩を見て自分は成長していかなければいけないか、そこを考えれば自ずと結果は出ると思っています。

■引退を発表してからの周囲の反応、メッセージはどうだったか
正直、予想以上の方が自分のことを知ってくれていたんだと改めて思うことができました。群馬に帰ってきた時もそうだったのですが、自分のことを知ってくれている方が多かったこと、引退に際してもたくさんの方からメッセージを頂いて一つ一つ時間をかけて、インターネット上のコメントも全て自分で文字に起こして、全て読み返しました。本当に嬉しいコメントがたくさんあって、本当に幸せだったなと思っています。

■ご家族、両親の存在について
20年もの間、プロサッカー選手ができたのは家族の支えがあったことに尽きると思っています。特に結婚してから犠牲にすることも多かったのですが、プライベートももちろんそうですが、食事、練習に行くのも基本的にはチームでは一番最初にクラブハウスに入るようにしていて、それに加えて帰りもトレーニングをしたり、全体練習とは別で練習したこともあったので、帰るのも遅くなったりもしました。でもそれも「サッカーのためだ」と理解してくれた家族が近くにいてくれたおかげ、だから20年間サッカーを頑張って来られたと思っています。

■ファン・サポーターの皆さんへメッセージを
特に今シーズンは結果がなかなか出なかったことに関して、最年長として支えられなかった責任を感じています。

実は、キャプテンを務めさせて頂いた2022シーズン、降格しそうになった時に、家族には「自分がキャプテンであるシーズンもしも降格してしまったら責任を取ってその時点でサッカーを辞めようと思う」というのを伝えて戦っていました。

結果としては何とか降格せずに残留できたので、「来シーズンまた頑張ろう」と思って昨シーズンに入っていったのですが、自分自身は去年、今年となかなか試合に絡めず、特に今シーズンは早い段階で降格が決まってしまい、ザスパを応援してくださる方々へなかなか勝利を届けられず、これは最年長である僕の責任は大きいと感じています。

■国内外問わずたくさんのクラブを渡り歩いてきて、キャリアの最後を故郷の群馬で終えられたことについて
僕としては幸せだったと思っていますし、セレモニーでもお伝えしましたがプロサッカー選手になった時に、「群馬でプロサッカー選手を終える」と決めて、そこだけは曲げずにこだわってきたので、その時にザスパがどのカテゴリーで戦っているというのはあまり意識していなくて、とにかく「群馬でスパイクを脱ぐこと」を達成できたことは誇りに思っています。

■影響を受けた選手、サッカー人生を豊かにしてくれた人へ、どんな気持ちを報告したいか
これまでいろんなクラブでプレーさせて頂いて、いろんな国の方々一緒に仕事してきて皆さんご存じだと思いますが、「プロサッカー選手とはどういうものなのか」ということが全くわからないことだらけだった中で、浦和レッズのOBである鈴木啓太さんには本当に多くのことを教えて頂きました。オフザピッチのことやポジションが同じだったこともあってプレー面もそうですし、ずっと後ろで目標にしてきた選手が近くにいてくれたので、僕自身はその影響でこれだけ長く、プロサッカー選手を続けてこれたなと思っています。

■恩師である前橋育英高校・山田監督に引退を伝えた際にはどんな言葉をかけられたか
高校時代からお世話になった山田先生には定期的に電話でお話をさせて頂くのですが、花束を頂いた際には「これからも頑張ってくれ」と言って頂いて、「これからも色々と迷惑を掛けるかと思いますが、よろしくお願いします」という会話をさせて頂きました。

■群馬での4シーズンで印象的だったこと
全ての試合で「地元で戦える喜び」ということを感じてプレーしていましたし、ここ2年間はチームの力になれなかったことへの悔しさが増しているのが正直な気持ちではあるのですが、そんな状況であったにも関わらずたくさんの方が自分のことを気にかけて応援して下さったことが何よりも嬉しかったです。

正直どの試合がというよりは勝てば素直に嬉しかったですし、負ければ「自分のような経験値のある選手が何をやっているのか」と、毎回自分に問いかけながら過ごしてきました。

■柏レイソルでの思い出、時間を振り返って
浦和レッズ同様に、柏レイソルでの時間も自分にとってはかけがえのない時間でしたし、僕としては海外のチームを経験して、サッカー選手でいたことでたくさんの方々とお会いできて、たくさんの刺激をもらったこと、その分たくさんの方に迷惑も掛けたこともあって選手としてわがままだったと思います。でも今思えば本当にたくさんの方から得たものが多かったと思います。

柏レイソルは2シーズンという短い時間ではありましたが、あの経験があったからこそまた海外でプレーをして今があるので、僕としては選んできた道に関して間違ったと思っているものは一つもないです。試合に出られなかったとしても「このクラブに来て良かった」と思いながら離れてきたので、プレーをさせて頂いた全てのクラブに感謝しています。

■ここ数年で同世代の選手が数多く引退する中で彼らと同じ時代にプレーしたことについて、どんな想いがあるか
本当にたくさんの素晴らしい選手たちに囲まれて、僕自身も恵まれたことに日本代表でも活動させてもらう時間があったので、(一緒にプレーした)世界各国で頑張っている日本人選手、各国の選手も含めてここ最近は引退する選手たちがすごく身近な選手だったりするので、同世代の森脇良太選手、興梠慎三選手だったり、梅崎司選手ともやりとりしていますし、少し前だと岡崎慎司、ちょっと引退とは違いますが本田圭佑とかとは電話でも話をするので、そういう中でああいう選手たちがいてくれたからこそ僕は頑張ってこれたと思いますし、常に彼らがそれぞれのクラブで頑張っている姿を見て「自分がこれではダメだ」と毎試合、毎週と感じることができたので、これも自分が頑張ってこれた理由の一つなのかなと思います。

■20年におよぶプロキャリアで一番記憶に残っている試合は
僕は試合に関してはよく覚えている方ではありますが、どこ行っても言われるのは2011年のアジアカップで本田圭佑選手が蹴ったPKのこぼれ球を詰めたことに間しては「あのゴール見てたよ」と、たくさんの方が覚えていてくれて、ザスパだけでなく他のクラブの選手たちも「見てました」と言われる機会が多かったので、それもふまえてあのゴールは「特別なゴール」だったと自分の中でが思っています。

よくよく見てみると、あのシーンに関しては自分がずっと積み重ねてきた自分らしいゴールだったのかなと思っています。PKのこぼれというのは浦和にいた時からずっとああいう詰める形を狙っていて、ああいうボールは基本的にはこぼれてこないものだと思いますが、サッカー人生20年終えて振り返る中で、日々積み重ねてきたからこそ大切なたった一度のチャンスで自分のところにこぼれてきたことに繋がったのかなと、あのゴールに関しては自分らしかったと思いますし、自分を褒めてあげたいと思います。


<花束贈呈>
昨シーズンで現役引退した元ザスパ群馬GKで現クラブアンバサダーの清水慶記と風間宏希選手が駆けつけ、花束贈呈をサプライズで行いました。

■清水慶記アンバサダー コメント

「ハジ、お疲れ様でした。僕は同じチームでプレーしていた中学校からの付き合いで、本人がどう思っているか分かりませんが、近くでハジが海外や代表に駆け上がっていく中で、中学時代と全くプレースタイルが違ったんですね。恐らくその時々でハジ自身が「自分の強みがどこで、何を求められているか」をしっかり理解して正しい方向で努力してきたんだなぁと思ってすごく尊敬していました。

これからお互い地元の群馬で、地元のクラブでまた共に歩んでいけるのが本当に嬉しく思うし、この輝かしいキャリアでの経験を生かして、頑張ってくれるんじゃないかなと思います。

本当に20年という長いキャリア、本当にお疲れ様でした。」

■風間宏希選手 コメント

「ハジさん、20年間お疲れ様でした。僕自身、公私共に本当に良くして頂きました。初めて話したのは2年前なんですけど、こんなキャリアを築いてきた選手なのに本当に物腰が柔らかくて、どんな選手にも優しく親しみやすく接してくれた一面があった一方で、公式戦で初めて一緒にプレーした時は「こんなに人が変わるんだ」というくらい闘争心の塊というか、そういう部分を見せてもらって「トップに行った選手はこんな選手なんだ」と感じさせてもらいました。今後、ザスパのために活躍してくれることを本当に僕も願っていますし、期待しています。

まずは20年間、お疲れ様でした。」